住職法話
あなたの平常心
よくスポーツ選手などが、試合前のインタビューで「平常心を忘れないように」とか「平常心で臨みます」と答えている様子を耳に致しますが、それでは平常心とはいったいどのような心境なのでしょう。私達が普段考える平常心とは、日頃と変わらず、格別の構えた思いも無く、気負いもなく、淡々とした心境であるという意味で用いられることが多いようです。
禅語としての「平常心(びょうじょうしん)」とは、趙州和尚と師の南泉普願禅師の問答に由来します。
[無門関第十九則] 平常心是道
趙州問う「如何なるか是道」 南泉曰く「平常心是道」
禅語としての「平常心」とは淡々として、全く心が動かないとか、動じないと言うことではありません。
ある会社員の方が、新規企画の発表の際に「何時もすぐに上がってしまい、緊張して失敗してしまいます。平常心になるにはどうすればよいですか?」という相談をしてきました。この人のように、一般的に平常心と言えば何事にも心が動ずることなく揺れ動かないことのように思われています。しかし、人生には喜怒哀楽があって、一喜一憂、日々の生活で悩みは尽きないものです。
心配事や不安になること、気になってしかたがないことなど、様々なことが身の回りに起きては心揺れ動いてしまうのが常です。
この揺れ動く自分のその心そのものが、我が心のそのときの真実の心であり、さまざまな状況、状態に応じて変化し現れるのが人の心であり人間として自然の姿です。
緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、落ち着こうとあせる心を起すときに不自然な心が働き、かえって変調をきたします。
泰然としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくありません。
むしろ緊張している我が心こそ、今の自分の真実の姿であり、ありのままの心だ、ということを素直に受け入れることです。
ありのままの心と姿を認め受け入れるとき、そこには自らが否定し、排除しようとした自分の心はなくなり、障りとする緊張感はなく平生の平常心があるのみとなる。
そのことがまさに「平常心是道」となるのです。
合 掌