住職法話

信念で得た人面の大岩

住職法話| 22 /23

ホーソンの「人面の大岩」

ナサニエル・ホーソンの短編小説に「人面の大岩」という作品があります。

私はこの小説が大好きです。子供の頃、読んだ少年少女世界文学全集の中に収められていた短編で、今でも忘れず、心に残っているお話です。 将来、宗教家になることを夢見ていた幼かった私に、この物語は非常に強い印象を与えてくれたものでした。

お話はこうです。

ある村がありました。

厳しい渓谷にあるその村は、土地も痩せていて、農作物も豊富ではなく、人々は貧困と飢えに苦しんでいました。 その村に生まれたひとりの少年は、渓谷の一角にある大きな岩を眺めるのが好きでした。

その大岩は人の顔のような形をしていました。そして、その顔はとても慈悲深く、暖かく、優しい顔をしていました。

少年は毎日、その人面の大岩を朝から晩まで眺めるようになりました。

そして、いつか人面の大岩のような慈悲深い人物が現れて、この村の窮状を救ってくれるのだ、と強く思うようになりました。 村人たちも人面の大岩のありがたい顔に気づき、少年と同じように人面の大岩のような立派な人物が村にやってきて、いつか村を貧困から救ってくれると信じるようになったのです。

ある時、その村に村出身の高名な軍人が凱旋帰郷をしました。

少年や村人たちはこの輝かしい実績を持つ英雄こそ、村を救ってくれる救世主だと総出で大歓迎したのでした。 少年と村人たちにとって、どことなく、軍人の顔が人面の大岩に似ているようにも思えました。

少年と村人たちの期待は高まるばかりでした。

しかし、その軍人は人面の大岩のような慈悲深い人物ではありませんでした。軍人は戦争に於いては一流の策士でしたが、人間的な優しさを持ち合わせてはいなかったのです。

少年と村人たちは失望しましたが、それでもいつか人面の大岩のような人物が再び現れると願い続けたのです。

しばらくすると、今度は宗教家が村に現れました。

少年や村人たちは彼こそが本当の救世主と期待しましたが、彼もそんな人物ではありませんでした。

村人たちはまたも失望し、「もうそんな人物は現れないだろう」と諦めるようになりましたが、少年だけは、「それでも人面の大岩のような人物がいつかきっと来てくれる」と、ひたすらに信じ続けたのです。

そして変わらず毎日、人面の大岩を眺め続けたのです。

やがて時は流れ、少年は立派な青年になり、村の窮状を救うため、人面の大岩の前で、村人たちを鼓舞する演説をするようになりました。 毎日、愛情と情熱を込めて演説する青年の言葉に村人たちは慰められ、勇気をもらうようになり、青年の演説を楽しみにするようになりました。

そして、いつしか青年は村人たちの敬愛を一身に集める存在となったのです。

そんなある日、ひとりの詩人が村を訪れました。

詩人の詩は優しく、美しく、力強い言葉で奏でられ、村人や青年の心を激しく揺さぶりました。

村人や青年は、この詩人こそ人面の大岩のような人物だ、きっとこの詩人が村を救ってくれるのだ、と期待したのです。

「今度こそ本物の救世主が来てくれた。あの詩人こそ、人面の大岩のような人物だ。きっと、この村を救ってくれる」

ある日、青年と詩人はふたりで話していました。

詩人は青年に静かに話しました。

「申し訳ないが、僕は君たちが期待するような人物ではないんだ。期待されても僕には何もできないんだ。」

青年は戸惑いました。

「なぜです。あなたの詩はあんなにも美しく、力強く人の心を打つではありませんか」

詩人は力なく自重気味に笑ってこう言いました。

「私の詩は言葉だけだ。いくら美しい言葉を並べでも、実際の生活には何の意味もなく、力もないんだよ。」

青年は信じたくありませんでしたが、やがていつものように演説のため、人面の大岩の前に立ち、村人を励ます演説を始めました。 その演説はいつもに増して激しく、慈悲深く、人々の心を打つものでした。

その様子を見ていた詩人が青年を指差してこう叫びます。

「彼だ! 彼こそ人面の大岩のような人物だ!」

村人は一斉に青年を見つめました。 情熱的に熱弁を振るう青年の顔は改め見ると、確かに人面の大岩によく似ていました。

村人たちはこぞって「彼だ。彼こそが私たちが待ち望んでいた救世主だ。」と叫びました。

しかし、青年は「いや、私はそんな人物ではない。これからきっと人面の大岩のような人物が現れる。そして、この村を救ってくれる。私はそれを待っている。」と静かに言うのでした。

このお話にはたくさんの教訓があります。

私たち宗教家にとっても、現状を何とか変えたいと願っている人たちにとっても、考えなければならない教訓がいっぱい詰まっています。

私がもっとも強い感銘を受けたのは、自分の幸福ではなく、村全体の幸福を願う心、そして青年の幸福を求め続ける姿勢と、さらには青年のあくまでも謙虚な姿勢です。

「無明の闇」という言葉がありますが、これは煩悩に捉われ、悟ることができない心の状態を闇に例えた言葉です。

「この世の中がどこもかしこも真っ暗で明かりのない闇の世界であったとしても。しかし、それでもその闇の中で一筋の光を探し続けなければならない。もしかしたら、光は最後まで見つからないかも知れない。それでも我々は光を探し続ける。その探し続ける姿勢が尊いのだ。どんな先の見えない闇の中でも明かりを探し続けなければならない。」

これは、ホーソンの「人面の大岩」が教えてくれる救世主が現れると信じ、ひたすらに諦めなかった青年の生き方と共通する真理があります。

それは人生を生きる上で最も大切な何かを決して諦めないで求め続けることの尊さです。

日々、心を清くして生きようと心掛け精進しても、時には傷つき、疲れ、目標を見失ってしまうこともある。忙しく、慌ただしい日々を送っていると、人を傷つけたり、傷つけられたりすることに慣れてしまい、イライラしたり、他人を気遣う気持ちを忘れがちになるのは致し方ないことなのかも知れません。 正しく、強く、人に優しく、まっすぐ強く生きることは、誰にでもそう簡単に出来ることではありません。 それにいくら自分がそう生きようと思っても、他人にそうでないことをされると落ち込んでしまい、なぜ自分だけが正しくあらなければならないのだ、と諦めてしまいがちです。

疲れ、自暴自棄になり、「もういいや」と目的を投げ出してしまいたいような時もあるでしょう。

悩みが大きくなると、自分が信じられなくなり、良くないと分かっていても、間違った方向に流されてしまいます。 何よりも自分が嫌になったり、正しくあることが馬鹿らしくなったりしてしまう気持ちに陥るのがいちばん恐ろしい悪い流れなのです。

しかし、それはそれでいいのです。そのようなことは誰にでもあるものです。そうなったとしても悩んだり、苦しんだり、自分を恥じたりすることはない。

常に聖人君子のように、正しく、真面目に、強く生きることができる人なんか、この世の中、なかなかいません。誰もが同じです。

だから、そんな時は自分を責めたり嫌になったりする必要はないのです。

大切なのは、そんな時でも、諦めず、くじけずに自分の理想を求め続けることです。

「精進」し続けていく、この身この命を精一杯使い切って生きて行く、そうすれば、いつかその目的に到達することが出来る。

「その人の思いはその人の行動となり、その人の思いはその人の雰囲気となり、その人の思いはその人の人となりを成す。」という言葉がありますが、理想や信念に近づきたいと常に願っている人は魅力的ですし、求め続けなければ、そこには永遠にたどり着くことはできません。

例え、たどり着かなくても、たどり着きたい、という気持ちは必ず周囲の人の心を動かし伝わるものです。そうしたいと願い続けることが、もうすでにあなたを人間として成長させ、高い地点まで引き上げていくのです。 「自分は、必ずこのようになりたい。」と、イメージの造形を忘れず精進し常に思い信念し続けることです。 その時点で、あなたはもう、その目標に達しつつあると言っていいでしょう。

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