住職法話

かけがえのない一日

住職法話| 21 /23

愛媛県松山市雲門寺にて法話

本日は雲門寺の寺号に因んで、雲門という名の中国唐時代の僧、雲門文偃禅師の語を選んでみました。(雲門広録)

よく掛け軸などで見かけたりしますが、皆さんは「日々是好日」という語を見たり聞いたりしたことはありますか。

かけがえのない一日を皆さんは毎日どのような思いで、そして日々どのような気持ちで過ごしているでしょうか?

日々の思いは? 日々の考えは? 日々の気持ちは?

さあ、皆さんはどうでしょうか。

ある日、雲門禅師が多くのお弟子さんに向かって「今から十五日以前のことはさておいて、今から十五日以後の心境を一言でのべよ」と、こう尋ねられました。

ところがお弟子さん達が返答できずに困っていると雲門禅師自らが即座に答えて、お弟子さん達に「日々是好日」と示されました。

この文字をそのまま解釈すると、「毎日が平安・平穏で無事の日である」という意味に捉えられますが、只単に毎日がよい日であると示すために「日々是好日」と答えられたのか、なぜ「日々是好日」なのか、雲門禅師はどのよう心でその語を示されたのか、そこに疑問を抱いて解くところにその教えの真意があるのです。

お弟子さん達は、十五日後の心境は十五日後にならないとわからないであろうから、十五日後に求め得た心境を答えようと考えたのでしょう。

しかし雲門禅師は十五日という期日を定めながらも、実は、今この一瞬の即座な答えをお弟子さん達に求めていたのです。 このような歌があります、仏門に入られる決意をされた親鸞聖人(浄土真宗を開宗)は当時、天台宗座主の慈円上人(天台宗の高僧として四度も座主をつとめる)を訪ね得度(出家の式)のお願いをします。しかし、すでに夜だったので「明日の朝になったら得度の式をしましょう」と言われましたが、親鸞聖人は「明日まで待てません」と言い、その時に「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠まれました。桜に自分の命をたとえ「桜は明日も美しく咲いているだろうと思い安心していると夜中に嵐が吹き、散ってしまうかもしれない。明日も自分は生きているかどうか分からない」と歌われたように。 雲門禅師は、「今この時に己の境地をのべられなければ一体いつその境地をいうときがあるのか、時は我々を待たず。はたして明日という日があるとは限らないではないか、だからこそ、この一瞬を逃さず大切にせよ」ということです。その一瞬を示した語が「日々是好日」なのです。

私達の命の有無にかかわらず時は続いていきます。「その一瞬を逃すな」ということは、我々が一瞬を逃さないのではなく、一瞬が我々を逃さないのです。だからこそかけがえのない大切な逃すことのできない「一瞬」なのです。

さして問題も起こらず、自分の思い通りに一日を過ごす平穏無事な日々だけが「日々是好日」ではありません。多くの人々は、今日も明日も明後日も好い日が訪れることを願います。 しかし、平穏無事な毎日を過ごしているとそれがあたりまえのことになり、そこには感謝の心も無くなってしまいます。感謝無きところには、有り難いと思う心とお蔭様でという心も無くなってしまいます。晴れの日もあれば雨の日もあり、日々様々な事柄が起き心を悩ませるようなことや、嵐が吹き荒れ人生に行き詰まりどうしようもないと思うことがあるかも知れません。

好し悪しの出来事が起こっても、自分の尺度にとらわれず、晴れもよし、雨もよしと、ありのままの一瞬をそのまま受け止めていく、清々しい心境を雲門禅師は説いています。一日一々はかけがえのないない日々であり二度と同じ日には戻らぬ一時です。

好日は只座して願い待って得られるものではなく、このかけがえのない一日におこる出来事を全身全霊で受け止めて生き、自らがどう生きていくかというところが「日々是好日」となっていくのです。有難くも隠元禅師に、そして黄檗宗にご縁を頂いた今日。

改めてこの一瞬より黄檗宗の御教えと共に、皆さんと共に「日々是好日」を実践してまいりましょう。

さあ、早速この一瞬から「日々是好日」!

合 掌

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