Archive for the ‘住職法話’ Category

酸いも甘いも

2016-02-03

「酸いも甘いも噛み分けた人」という言葉を耳にします。人生経験豊かで、世間の事情や人の心の機微によく通じている人、という意味です。人が生きていく上で、困難や苦労は避けて通れないものです。

その時、それらを進んで受け止め、失敗や不調を繰り返した末にそれらを克服することができれば、大きな喜びや自信になり、その人の心は鍛えられていきます。

また、周囲の協力や支えがあった場合には、それらを味わい感謝することによって人生の機微を会得し、その都度人格も向上していくものと思います。

反対に、困難や苦労も知らず、或いは避けて過ごしてきた人は、「酸いも甘いも噛み分けた人」からはほど遠く、自らの人生を自力で切り開いていく意志も力も備わらず、ひ弱で依頼心の強い人間になりがちです。そして、人にとって大切な感謝の心すら無くなってしまいます。

「酸いも甘いも」ようするに「苦労と喜び」をいかに人生のなかで経験していくことが大切であるかということです。

苦しみばかりの人生には感謝の心が芽生えません、逆に喜びばかりの人生にも感謝の心は芽生えません。

何故か?

それは、「苦しみとか喜び」そのことが当たり前になってしまうからです。

震災後、現地では水道の蛇口を回しても水が出ないという状況が暫く続き、給水車に列をなして順番を待ち、やっと手に入れる。

震災前には経験しなかった事でしょう。

水が出ることが当たり前になっている生活を送っていた時には、水道の蛇口から水が出ても、そこには感謝の心はなかったはずです。

今、あなたは朝顔を洗うときに「あぁ水がでる、ありがたい」食事の支度で「お米が研げる、お野菜を洗える、まあなんとありがたいことか」と感謝しながら生活しているでしょうか。

苦しみでも、喜びでも、そのことが、当たり前になってしまったとき、そこには感謝の心が芽生えなくなってしまうのです。

病気になったとき健康のありがたさがわかるように、「酸いも甘いも」「苦楽」を経験するからこそ、人は感謝の心が芽生えるのです

人生で苦労して得た貴重な体験こそ、その人の誇りであり、その後長くその人の自信につながっていき、感謝の心を芽生えさす大きな財産になっていくのです。

本心は何時か行動に現れる

2015-10-12

ハート私達の日々の暮らしの中で、自分の本心を少しも包み隠さず、素直に思ったままを言葉や態度で表している場面はどれだけあるでしょうか。

誰しも周りから良く思われたいと思うものです。自分から進んで悪く思われたいと思わないはずです。

人から自分を悪く思われたくない、良く見せたいという気持ちは、程度の差こそあれ、誰にでもあります。 例えば、他人の仕草や言動に腹を立てながらも、自分の気持ちを相手に素直に伝えられず、表面は何くわぬ顔で平成を装い、時には心にもないお世辞まで言ってしまう人がいるかもしれません。

しかし、その不平不満が心に残り、何かのはずみで他人にそれを漏らしてしまえば、かえって自分に対して不信感を抱かれてしまうことにもなります。本心でもない、偽りの言葉の真偽は周囲にはいずれ感じ取られます。また、どんなにうまく立ち振る舞ったつもりでも、誠意のない行動はそう長続きするものではなく、やがては人に見破られ、見下されてしまいます、何事においても、うわべだけをつくろった偽りの多い心ではなく、常に真心を尽くし対処していきたいものです。

心は心を以て心に伝える「以心伝心」の心境で暮らして行きましょう。

なごやかな心に人は心を開く

2015-10-10

琉璃燈より

安城寺住職法話アサガオ「和」(わ・なごみ)、「和合」、「なごやか」と言う言葉は、日本特有の素晴らしい言葉です。

人が人に対して思いやりの心を持って、なごやかな気持ちで接することは大切なことです。なごやかなる心と温かい人柄を慕って人は集まり、自分の欲得ずくで、身勝手な冷めた心に人は去って行きます。

温かい人を思いやるなごやかな心を養っていくためには、まず「相手の立場に立って物事を考えてみる」ことが大切です。 私達は生まれ持った能力、性格、育ってきた環境、そして現在置かれている立場や事情がそれぞれに異なっています。そのことを考えずに、ただ自分の思い方や尺度だけで相手を捉えようとすると当然そこには無理が生じます。

人だから間違いも失敗も、思い違いも、考え違いもあります。この世の中に誰一人として、間違いも失敗もしない人はいないでしょう。自分や周囲の人が不足不満に思う相手の態度や行動は、その人を取り巻く環境や立場に何らかの原因や事情があるかもしれません。自分自身は、たまたま環境に恵まれているだけであって、そのことに気付かず自分にも多くの欠点や弱点があることを再認識する必要があります。

相手を思いやる心を持って、お互いに向上して行こうとする温かいなごやかな思いやりの気持ちで接すれば、たとえそれが注意や叱責になっても、頑(かたく)なな人の心をも開いていけるのではないでしょうか。

なごむ気持ちを持って、相手のことを心から思いやってこそ人は心を開き、慈しみ尊ぶところに、それに応える心が返ってくることでしょう。

ある女の子の興味

2015-08-23

琉璃燈第23号掲載

るりとう23教会や寺社仏閣は特に週末は行事が立て込みます。結婚式、法話会、婦人会や青年会、座談会など、様々な行事があります。

お寺の場合どうしても土曜、日曜など週末は法事が入り、それが幾つも重なってしまいます。

私が、住職になって間もないある日曜のことです。

街なかの会場で法事があり、それを終えて次の法事の場所へ向かう時の出来事でした。

一軒目の法事が思いの外、参列者が多く長引いてしまいました。幸いなことに次の場所までは歩いて行ける距離です。

それでも約束の時間に間に合わないと慌てて商店街を抜けたのですが、大通りの横断歩道の信号に引っ掛かってしまいました。

その近くには大きなデパートもあり、日曜日ということもあって、たくさんの人が信号待ちをしていました。

皆さんも経験があると思いますが、急いでいる時ほど信号が長く感じられるものです。

早く信号が青にならないかなと思いながら横断歩道のところで待っていると、何となく人込みの中から視線を感じ、その方に目をやると、5才か6才ぐらいの女の子が私をジッと見ています。

右側から覗いたり、左側から覗いたり、後ろに廻ったりと、よほど私の存在が気になったのか、まるで未知との遭遇のように、ありとあらゆる角度から私を観察しています。

信号待ちしている人たちもその雰囲気に気づき、私や女の子をチラチラと見たりしていました。

女の子はとうとう意を決したかのように私の正面に立ち、頭の天辺からつま先までじっと目を凝らした後、やがて満足したかのようにベビーカーを押している母親の方へ、トコトコと歩いて行きました。

見たところ、もうひとり幼い子供を抱えた、年の頃25~26才の女性でした。

その子がお母さんの傍らに行ったと思った、次の瞬間、女の子が大きな声で、

「お母さん、あの人、変!」

と叫ぶように言ったのです。

周囲の人達もそれまでの状況から察して、女の子が言っている人物は私であるとすぐに感じたようでした。

お母さんも子どもに負けないぐらいの大きな声で、

「変なこと言ったらダメ!」

と叱るように言いました。

すると、女の子は間髪入れず、

「だってあの人、毛がないんだよ! それに変な服着てる!」

と、また大声で言うのです。

すると、お母さんは、

「あの人はお坊さんだから、毛がなくてもいいの」

と、答えました。

女の子はさらに続けて質問しました。

「ねえねえ、お母さん、お坊さんて何なの?」

きっと、その女の子は、僧侶という存在を見たのは、彼女の人生で初めての経験だったのでしょう。

毛がないというのは剃髪をしていることを指し、変な服とは、きっと御衣を着ていることを言ったのでしょうね。

しかし、さあ、この若いお母さんが「お坊さんって何なの?」という質問に何と答えるのか、私は興味津々になりました。

すると、横断歩道の信号が青に変わってしまいました。

しかし、次の場所へ急いでいるとはいえ、この若いお母さんの答えを聞き逃すわけにはいきません。

私は、ベビーカーを押すお母さんに、歩調を合わせながら、ゆっくりと横断歩道を渡り始めました。

ふと周囲を見回すと、その子供と母親のやり取りをみていた人たちが、みんなゆっくりと歩調を合わせて歩いているではありませんか。

その若いお母さんがなんと答えるか、答えを聞きたかったのは、私だけではなかったのです。

横断歩道を歩きながら、母親は子供の質問に、こう答えたのです。

「あのね、お坊さんってのはね、いつもはお寺っていうところに住んでいて、誰かが死んだら、そのお寺っていうところからやってくるの、そして、そのお坊さんがお経っていう、訳の分からない言葉を、むにゃむにゃって唱えるの、そしてそのお経が上手か下手かで天国に行くか地獄に行くか決まるのよ。人が死んだら来るの。」

一緒に歩調を合わせながら、その母親の答えを聞いていた、周囲の人たちも「うんうん」と頷きながら、その場を立ち去っていきました。

私はその答えに多少驚きながらも、そのような認識に苦笑いする思いでした。

それでは、この若いお母さんのお坊さんに対する認識は間違いなのかどうか、考えてみましょう。

仏教では「天国」とは言いません。皆さんがよく使う「天国」はキリスト教などで使われ、仏教では「極楽」と言います。

ちなみに私は、天の国より、楽しみを極めると書く「極楽」のほうが好きですが。

母親が、「誰かが死んだら、お寺というところからやってくるの」と答えたように、一般的には僧侶の仕事はお葬式、法事が一番手の仕事のように思われているようです。

確かに僧侶に接するのは、日常的なことではなく、葬儀とか法事の時に接することがほとんどで、そう思われても仕方ないかも知れません。

しかし、実は、お葬式は僧侶にとって、二番手、三番手の仕事であり、決して一番手の仕事ではないのです。

こう言うと、世間一般の皆さんは、

「えっ! お坊さんの仕事は葬儀とか、法事じゃないの?」

と思われるかも知れませんが、僧侶にとっていちばん大切な仕事は、もっと別なところにあるのです。

その、御教(みおしえ)えによって進むべき道を示し、法を説くことが、私たち宗教家が成さなければならないもっとも重要な仕事です。

「こんな時には、こんな思いで」

「こういう時には、このような考えと行動で、進むべき道に迷った時には、道を示す」

要するに、その、御教(みおしえ)えにより布教をすることが宗教家として、いちばん大切な務めであり、成さねばならない仕事なのです。

本来、宗教とか信仰は、決して敷居が高く、近寄りがたいものではなくて、皆さんと共にあるもので、そうであることが、宗教家の使命であり役目なのです。

人は、それぞれ、生きているうちに知らず知らずのうちに、役目というものが備わってきます。

人として、そして職業を通して、それぞれに与えられた環境の中で、皆さんも、自分の使命は何だろうと、もう一度考えてみて下さい。

「天上天下唯我独尊」世界にたった一つの尊い命です、貴方にしか出来ない貴方だからこそ出来る、貴方に与えられた使命が必ずあります。そこには必ず自分の成すべき道、進むべき道が見えてくることでしょう。

あたりまえ あたりまえ

2015-08-23

琉璃燈第22号掲載

るりとう22小学5年生の兄弟が親に連れられ法事のため寺にやって来ました。

男の子二人と女の子一人の三つ子の兄弟です。

法要が始まるまでの間、境内を走り回ったりして遊んでいました。男の子の兄弟の一人は身体が不自由で一緒に走り回ることは出来ません。しかし時折その兄弟のところに駆け寄って同じように遊ぶ姿はとてもほほ笑ましい限りでした。

 

法要前にご両親が「今日は、子供も同伴しております、小さい頃から手を合わせることを習慣づけ、仏様に向かい会うことを学んでくれればと思い連れてきました。法要中に失礼なことがあるかもしれませんが、何卒ご容赦下さいませ」とご挨拶にこられました。

 

子供は騒ぐので法事に連れて来るのを遠慮される方々がおられるなか、とても良いことだなあと感じた次第です。

やはり、子は親を映し出す鏡、親の思いが子に伝わるのでしょう、法要中は何の支障もなくその兄弟は静かに手を合わせていました。

 

法要の後、法話をするにあたり、この子供たちにも解ることを題材にしようと思い、子供たちに「いつもご両親からどんなことを言われてるかな?」と質問しました。

すると女の子が「ちゃんと宿題はしたの!」とか「ちゃんとご挨拶しなさい!って言われる」と、答えました。

まあ、どこの家庭でも交わされている会話ですが、男の子が思い出したように

「感謝が足りん!もっと感謝しなさい!って時々言われる」と答えました。

 

では、「感謝って何かわかる?感謝って何だと思う?」と訪ねると、男の子が「何か自分が得したときに感謝するよ」続いて女の子が「なんか嬉しいことがあったときに感謝します」と答えが反ってきました。

そこで、その兄弟にこんな質問をしてみました。

「朝、顔を洗うときに感謝していますか? 水道の蛇口を回すとお水が出るでしょ。もしお水が出なかったら顔も洗えないでしょ、東日本大震災のときには水道も電気もガスも遮断され生活に支障をきたしてとても困ったんだよ」と話をすると、男の子が「じゃあ、トイレも使えなくなって、お風呂も入れなかったの?ご飯も作れないんでしょ、そんな不便な生活できないよ!」と、困った顔をしていっていました。

さあ、皆さん方もどうでしょう、日常のお炊事で、今日もお水が出てお野菜が洗える、お米が研げる、有り難いなあと感謝している方は少ないのではないでしょうか。

普段、身の回りにあるものは「あたりまえ」になってしまい、そこには感謝の心は芽生えてこないものです。

こんなふうに「あたりまえ」と思っていることにこそ感謝しないといけないんだよ、と話をすると、子供たちは、「和尚さん、じゃあ全部に感謝だね!」と、はしゃぐように言っていました。

喜びも、あたりまえになれば喜びでは無くなり、感謝の思いと感謝の心も無くなってしまうでしょう。苦しみばかりの人生にも、喜びばかりの人生にも感謝の思いと心は芽生えないものです。

苦楽をともにするからこそ、そこに感謝の心と思いが生まれてくるのです。

私たちが普段忘れている、「あたりまえ」のことにこそ改めて感謝しなくてはなりません。

 

過日、韓国で修学旅行生を乗せた海難事故がありました。きっと子供を送り出すときには、親は「修学旅行楽しんできなさいね」と、そして、子は「おみやげ買ってくるから楽しみにしてて」と、まさか帰らぬことになるとは思いもせず、楽しい会話がはずんでいたはずです。

 

そう考えると、子供が学校に行って無事に帰ってくるのがあたりまえ、夫が仕事に行って帰ってくるのがあたりまえと、そのように思い、生活をしている事を改めて見つめ直し「感謝」という事について考えなければなりません。

 

「なんだこんなこと」とか「こんなことどうでもいいや」と思えるようなことほど大切にし、粗末にしてはいけないということです。

子供が「和尚さん、じゃあ全部に感謝だね!」といったように、身の回りの「あたりまえ」にもう一度心を傾け感謝の思いを見つめ直しましょう。

 

改めて

「あたりまえ あたりまえに感謝!

この身体とこの命、そして、それを支えてくれているすべてのものに感謝!」

« Older Entries Newer Entries »
Copyright(c) 2013 黄檗宗 西江山 安城寺 All Rights Reserved.