Archive for the ‘住職法話’ Category

あなたの平常心

2016-09-18

よくスポーツ選手などが、試合前のインタビューで「平常心を忘れないように」とか「平常心で臨みます」と答えている様子を耳に致しますが、それでは平常心とはいったいどのような心境なのでしょう。私達が普段考える平常心とは、日頃と変わらず、格別の構えた思いも無く、気負いもなく、淡々とした心境であるという意味で用いられることが多いようです。

禅語としての「平常心(びょうじょうしん)」とは、趙州和尚と師の南泉普願禅師の問答に由来します。

[無門関第十九則] 平常心是道
趙州問う「如何なるか是道」 南泉曰く「平常心是道」

禅語としての「平常心」とは淡々として、全く心が動かないとか、動じないと言うことではありません。

ある会社員の方が、新規企画の発表の際に「何時もすぐに上がってしまい、緊張して失敗してしまいます。平常心になるにはどうすればよいですか?」という相談をしてきました。この人のように、一般的に平常心と言えば何事にも心が動ずることなく揺れ動かないことのように思われています。しかし、人生には喜怒哀楽があって、一喜一憂、日々の生活で悩みは尽きないものです。

心配事や不安になること、気になってしかたがないことなど、様々なことが身の回りに起きては心揺れ動いてしまうのが常です。
この揺れ動く自分のその心そのものが、我が心のそのときの真実の心であり、さまざまな状況、状態に応じて変化し現れるのが人の心であり人間として自然の姿です。

緊張すべきときに無理に平常心を作ろうとか、落ち着こうとあせる心を起すときに不自然な心が働き、かえって変調をきたします。

泰然としていようとすればするほど緊張は高まり、不安になることも少なくありません。

むしろ緊張している我が心こそ、今の自分の真実の姿であり、ありのままの心だ、ということを素直に受け入れることです。

ありのままの心と姿を認め受け入れるとき、そこには自らが否定し、排除しようとした自分の心はなくなり、障りとする緊張感はなく平生の平常心があるのみとなる。

そのことがまさに「平常心是道」となるのです。

合 掌

信念で得た人面の大岩

2016-03-04

ホーソンの「人面の大岩」

ナサニエル・ホーソンの短編小説に「人面の大岩」という作品があります。

私はこの小説が大好きです。子供の頃、読んだ少年少女世界文学全集の中に収められていた短編で、今でも忘れず、心に残っているお話です。 将来、宗教家になることを夢見ていた幼かった私に、この物語は非常に強い印象を与えてくれたものでした。

お話はこうです。

ある村がありました。

厳しい渓谷にあるその村は、土地も痩せていて、農作物も豊富ではなく、人々は貧困と飢えに苦しんでいました。 その村に生まれたひとりの少年は、渓谷の一角にある大きな岩を眺めるのが好きでした。

その大岩は人の顔のような形をしていました。そして、その顔はとても慈悲深く、暖かく、優しい顔をしていました。

少年は毎日、その人面の大岩を朝から晩まで眺めるようになりました。

そして、いつか人面の大岩のような慈悲深い人物が現れて、この村の窮状を救ってくれるのだ、と強く思うようになりました。 村人たちも人面の大岩のありがたい顔に気づき、少年と同じように人面の大岩のような立派な人物が村にやってきて、いつか村を貧困から救ってくれると信じるようになったのです。

ある時、その村に村出身の高名な軍人が凱旋帰郷をしました。

少年や村人たちはこの輝かしい実績を持つ英雄こそ、村を救ってくれる救世主だと総出で大歓迎したのでした。 少年と村人たちにとって、どことなく、軍人の顔が人面の大岩に似ているようにも思えました。

少年と村人たちの期待は高まるばかりでした。

しかし、その軍人は人面の大岩のような慈悲深い人物ではありませんでした。軍人は戦争に於いては一流の策士でしたが、人間的な優しさを持ち合わせてはいなかったのです。

少年と村人たちは失望しましたが、それでもいつか人面の大岩のような人物が再び現れると願い続けたのです。

しばらくすると、今度は宗教家が村に現れました。

少年や村人たちは彼こそが本当の救世主と期待しましたが、彼もそんな人物ではありませんでした。

村人たちはまたも失望し、「もうそんな人物は現れないだろう」と諦めるようになりましたが、少年だけは、「それでも人面の大岩のような人物がいつかきっと来てくれる」と、ひたすらに信じ続けたのです。

そして変わらず毎日、人面の大岩を眺め続けたのです。

やがて時は流れ、少年は立派な青年になり、村の窮状を救うため、人面の大岩の前で、村人たちを鼓舞する演説をするようになりました。 毎日、愛情と情熱を込めて演説する青年の言葉に村人たちは慰められ、勇気をもらうようになり、青年の演説を楽しみにするようになりました。

そして、いつしか青年は村人たちの敬愛を一身に集める存在となったのです。

そんなある日、ひとりの詩人が村を訪れました。

詩人の詩は優しく、美しく、力強い言葉で奏でられ、村人や青年の心を激しく揺さぶりました。

村人や青年は、この詩人こそ人面の大岩のような人物だ、きっとこの詩人が村を救ってくれるのだ、と期待したのです。

「今度こそ本物の救世主が来てくれた。あの詩人こそ、人面の大岩のような人物だ。きっと、この村を救ってくれる」

ある日、青年と詩人はふたりで話していました。

詩人は青年に静かに話しました。

「申し訳ないが、僕は君たちが期待するような人物ではないんだ。期待されても僕には何もできないんだ。」

青年は戸惑いました。

「なぜです。あなたの詩はあんなにも美しく、力強く人の心を打つではありませんか」

詩人は力なく自重気味に笑ってこう言いました。

「私の詩は言葉だけだ。いくら美しい言葉を並べでも、実際の生活には何の意味もなく、力もないんだよ。」

青年は信じたくありませんでしたが、やがていつものように演説のため、人面の大岩の前に立ち、村人を励ます演説を始めました。 その演説はいつもに増して激しく、慈悲深く、人々の心を打つものでした。

その様子を見ていた詩人が青年を指差してこう叫びます。

「彼だ! 彼こそ人面の大岩のような人物だ!」

村人は一斉に青年を見つめました。 情熱的に熱弁を振るう青年の顔は改め見ると、確かに人面の大岩によく似ていました。

村人たちはこぞって「彼だ。彼こそが私たちが待ち望んでいた救世主だ。」と叫びました。

しかし、青年は「いや、私はそんな人物ではない。これからきっと人面の大岩のような人物が現れる。そして、この村を救ってくれる。私はそれを待っている。」と静かに言うのでした。

このお話にはたくさんの教訓があります。

私たち宗教家にとっても、現状を何とか変えたいと願っている人たちにとっても、考えなければならない教訓がいっぱい詰まっています。

私がもっとも強い感銘を受けたのは、自分の幸福ではなく、村全体の幸福を願う心、そして青年の幸福を求め続ける姿勢と、さらには青年のあくまでも謙虚な姿勢です。

「無明の闇」という言葉がありますが、これは煩悩に捉われ、悟ることができない心の状態を闇に例えた言葉です。

「この世の中がどこもかしこも真っ暗で明かりのない闇の世界であったとしても。しかし、それでもその闇の中で一筋の光を探し続けなければならない。もしかしたら、光は最後まで見つからないかも知れない。それでも我々は光を探し続ける。その探し続ける姿勢が尊いのだ。どんな先の見えない闇の中でも明かりを探し続けなければならない。」

これは、ホーソンの「人面の大岩」が教えてくれる救世主が現れると信じ、ひたすらに諦めなかった青年の生き方と共通する真理があります。

それは人生を生きる上で最も大切な何かを決して諦めないで求め続けることの尊さです。

日々、心を清くして生きようと心掛け精進しても、時には傷つき、疲れ、目標を見失ってしまうこともある。忙しく、慌ただしい日々を送っていると、人を傷つけたり、傷つけられたりすることに慣れてしまい、イライラしたり、他人を気遣う気持ちを忘れがちになるのは致し方ないことなのかも知れません。 正しく、強く、人に優しく、まっすぐ強く生きることは、誰にでもそう簡単に出来ることではありません。 それにいくら自分がそう生きようと思っても、他人にそうでないことをされると落ち込んでしまい、なぜ自分だけが正しくあらなければならないのだ、と諦めてしまいがちです。

疲れ、自暴自棄になり、「もういいや」と目的を投げ出してしまいたいような時もあるでしょう。

悩みが大きくなると、自分が信じられなくなり、良くないと分かっていても、間違った方向に流されてしまいます。 何よりも自分が嫌になったり、正しくあることが馬鹿らしくなったりしてしまう気持ちに陥るのがいちばん恐ろしい悪い流れなのです。

しかし、それはそれでいいのです。そのようなことは誰にでもあるものです。そうなったとしても悩んだり、苦しんだり、自分を恥じたりすることはない。

常に聖人君子のように、正しく、真面目に、強く生きることができる人なんか、この世の中、なかなかいません。誰もが同じです。

だから、そんな時は自分を責めたり嫌になったりする必要はないのです。

大切なのは、そんな時でも、諦めず、くじけずに自分の理想を求め続けることです。

「精進」し続けていく、この身この命を精一杯使い切って生きて行く、そうすれば、いつかその目的に到達することが出来る。

「その人の思いはその人の行動となり、その人の思いはその人の雰囲気となり、その人の思いはその人の人となりを成す。」という言葉がありますが、理想や信念に近づきたいと常に願っている人は魅力的ですし、求め続けなければ、そこには永遠にたどり着くことはできません。

例え、たどり着かなくても、たどり着きたい、という気持ちは必ず周囲の人の心を動かし伝わるものです。そうしたいと願い続けることが、もうすでにあなたを人間として成長させ、高い地点まで引き上げていくのです。 「自分は、必ずこのようになりたい。」と、イメージの造形を忘れず精進し常に思い信念し続けることです。 その時点で、あなたはもう、その目標に達しつつあると言っていいでしょう。

かけがえのない一日

2016-03-03

愛媛県松山市雲門寺にて法話

本日は雲門寺の寺号に因んで、雲門という名の中国唐時代の僧、雲門文偃禅師の語を選んでみました。(雲門広録)

よく掛け軸などで見かけたりしますが、皆さんは「日々是好日」という語を見たり聞いたりしたことはありますか。

かけがえのない一日を皆さんは毎日どのような思いで、そして日々どのような気持ちで過ごしているでしょうか?

日々の思いは? 日々の考えは? 日々の気持ちは?

さあ、皆さんはどうでしょうか。

ある日、雲門禅師が多くのお弟子さんに向かって「今から十五日以前のことはさておいて、今から十五日以後の心境を一言でのべよ」と、こう尋ねられました。

ところがお弟子さん達が返答できずに困っていると雲門禅師自らが即座に答えて、お弟子さん達に「日々是好日」と示されました。

この文字をそのまま解釈すると、「毎日が平安・平穏で無事の日である」という意味に捉えられますが、只単に毎日がよい日であると示すために「日々是好日」と答えられたのか、なぜ「日々是好日」なのか、雲門禅師はどのよう心でその語を示されたのか、そこに疑問を抱いて解くところにその教えの真意があるのです。

お弟子さん達は、十五日後の心境は十五日後にならないとわからないであろうから、十五日後に求め得た心境を答えようと考えたのでしょう。

しかし雲門禅師は十五日という期日を定めながらも、実は、今この一瞬の即座な答えをお弟子さん達に求めていたのです。 このような歌があります、仏門に入られる決意をされた親鸞聖人(浄土真宗を開宗)は当時、天台宗座主の慈円上人(天台宗の高僧として四度も座主をつとめる)を訪ね得度(出家の式)のお願いをします。しかし、すでに夜だったので「明日の朝になったら得度の式をしましょう」と言われましたが、親鸞聖人は「明日まで待てません」と言い、その時に「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠まれました。桜に自分の命をたとえ「桜は明日も美しく咲いているだろうと思い安心していると夜中に嵐が吹き、散ってしまうかもしれない。明日も自分は生きているかどうか分からない」と歌われたように。 雲門禅師は、「今この時に己の境地をのべられなければ一体いつその境地をいうときがあるのか、時は我々を待たず。はたして明日という日があるとは限らないではないか、だからこそ、この一瞬を逃さず大切にせよ」ということです。その一瞬を示した語が「日々是好日」なのです。

私達の命の有無にかかわらず時は続いていきます。「その一瞬を逃すな」ということは、我々が一瞬を逃さないのではなく、一瞬が我々を逃さないのです。だからこそかけがえのない大切な逃すことのできない「一瞬」なのです。

さして問題も起こらず、自分の思い通りに一日を過ごす平穏無事な日々だけが「日々是好日」ではありません。多くの人々は、今日も明日も明後日も好い日が訪れることを願います。 しかし、平穏無事な毎日を過ごしているとそれがあたりまえのことになり、そこには感謝の心も無くなってしまいます。感謝無きところには、有り難いと思う心とお蔭様でという心も無くなってしまいます。晴れの日もあれば雨の日もあり、日々様々な事柄が起き心を悩ませるようなことや、嵐が吹き荒れ人生に行き詰まりどうしようもないと思うことがあるかも知れません。

好し悪しの出来事が起こっても、自分の尺度にとらわれず、晴れもよし、雨もよしと、ありのままの一瞬をそのまま受け止めていく、清々しい心境を雲門禅師は説いています。一日一々はかけがえのないない日々であり二度と同じ日には戻らぬ一時です。

好日は只座して願い待って得られるものではなく、このかけがえのない一日におこる出来事を全身全霊で受け止めて生き、自らがどう生きていくかというところが「日々是好日」となっていくのです。有難くも隠元禅師に、そして黄檗宗にご縁を頂いた今日。

改めてこの一瞬より黄檗宗の御教えと共に、皆さんと共に「日々是好日」を実践してまいりましょう。

さあ、早速この一瞬から「日々是好日」!

合 掌

決断は欲を捨てるところから始まる

2016-02-21

「おしょうさん、なかなか決断が出来ないのですが!毎日、悩みに悩んでも、決断出来ず結論がでないので…」と言って、お寺に御相談に来られた方がおられました。

皆さんも、何か重大な事柄が起こったり、何かを始めたりするときに決断が出来なくて困ったことがありませんか?

簡単なことですが、たとえば毎日の生活や日常の中で、「どちらを選ぶか」といった、決断を迫られる場合があります。

買い物に行って、どちらの洋服がいいか、どちらの色がいいかで悩んだ経験は皆さんにもあると思います。値段が安い物ならまだしも高価な品物を選ぶとなれば尚さらのこと悩んでしまうものです。ましてや両方とも気に入ってしまえばなかなか決めにくいものです。

子供が限られたお小遣いのなかでどのお菓子を買うのかということに悩むのも、一つの決断といえるでしょう。こういった選択には「決断」という言葉は少しおおげさ過ぎるかもしれませんが、何か一つをとって他を捨てなくてはいけないということから考えれば、これも一種の決断と言えるでしょう。
こちらの洋服も素敵だけど、今日はこちらの洋服がセールになっていると迷ってしまうのは、どちらかを捨てきれないで、どちらも欲しいという「欲」があるからです。

欲を捨てることはなかなか難しいことです。

迷ってどうしようもないのなら、それなら両方買えば解決するのではと思われる方もおられるでしょう。
確かに、品物であれば両方買えば解決するかもしれませんが、会社の命運に関わるような事を決めることや、就職試験を受け数社の会社から採用されることになり、それも数社とも希望していた会社であったというような場合は、すべての会社に就職するわけにはいきません。どれか一つを選択しなければならない自分の人生の大事なことを決めないといけない事柄であると、益々悩んでしまうものです。

人間関係がうまくいかず行き詰まりから脱出してなんとか改善しなくてはならないとき、事業が停滞したりして新しい分野に挑戦・進出していこうとする場合も同様です。
事業の場合はとくに「以前はこれで上手くいっていた」 「今までのやり方でそれなり成果がでていた」と言う過去にとらわれる思いを捨て切れないものです。しかしその過去に囚われていては、新しき出発どころか取り組む決意も鈍り決断もできません。

大切なのは「どちらも両方うまく得よう」といった「欲」を捨て去ることです。
「欲」が決断を惑わす。決断とは欲を捨て、より大きな成果を目指し、強い意志(信念)を持って邁進するところから始まっていくのです。

私の選んだのだから間違いない。このことが私にとって最善のことであるという信念と覚悟をきめることこの覚悟を決めることが人生の責任であり、新たなる一歩となるのです

世界平和は忘己利他の心で

2016-02-18

争う心で平和を唱えても

   世の中は平和にはならない

この世の中は、人それぞれがお互いに助け合い、持ちつ持たれつしながら仲良くしていくところに平和が生まれるのです。

しかし現実には、いたる所で争い事が起きています。これは人間の心の中に自己中心の思いが渦巻き、争い・憎しみの心が、常に息づいているからです。自分の欲望だけを満足させるために、他人の考え方や意見を無理に押さえつけ自分の主張だけを通そうとしたり、自分の我が儘、自分だけの自由(心)奔放さを求めて、他人の自由(心)を認めないようなことでは、常に争いが起こるのは当然で、平和など望むべくもありません。

では、なぜそのような争いのこころが起こるのでしょうか。

欲には善い欲と悪い欲があります。

他の為を計り、すべてを幸せにしようと考えることが出来る調和の心、仏教で言うところの「和」(なごむ)という心

自分以外の他はどうでもいい、己の事しか考えられないという利己主義的な三毒の心

三毒とは、人の心を毒す代表的な煩悩が三つです。
「貪欲(どんよく)」、「瞋恚(しんに)」、「愚痴(ぐち)」、略して「貪(とん)」、「瞋(じん)」、「痴(ち)」といい、これを三毒とよんでいます。
「貪欲」とは、むさぼりの心であり、自分だけがうまいことをしようとする強欲な心。

「瞋恚(しんに)」とは怒りの心です。

「瞋恚」の瞋(いか)りは、目くじらを立て猛烈に瞋ることであり、恚(いか)りは、恨みに恨んで恚る心。「瞋恚」とは、妬んだり僻んだり嫉妬心から、いかる心。
よく怒る人は、欲が深く執着の心から離れられないと言います。

「愚痴(ぐち)」とは。
自分の望みがかなえられない、となると、愚かな喧嘩(戦争)をはじめる。
それに負けると、こんどは愚痴をいったり困ることをする。

結局はすべて自分中心でしか物事を考えられない心です。

そこで、私達は「忘己利他」を実践しなくてはなりません。自分だけが良ければいいという利己を押さえ、他の人も良かれと思う気持ちを持つことです。

・他が幸せになること
・自分が幸せになること
・すべてが幸せになること

この三つのことを祈り実践することが大切です。

真(しん)の平和を唱えるのなら、口先だけでなく一人一人が心の平和を心がけ、争いの原因となる自己中心の心や、偏狭(へんきょう)なひとりよがりの心を取り去り、互いに助け合い仲良くしていくより外(ほか)はありません。これが、広くは世界、社会、国家、職場の平和から、そして家庭、個人の交際まで同じように目指して実践して行きましょう。

« Older Entries
Copyright(c) 2013 黄檗宗 西江山 安城寺 All Rights Reserved.