安城寺とは
安城寺の由来
安城寺は、享保5年(1720年)徳川8代将軍吉宗のとき、松平定英が松山城主となり、享保8年(1723年)松山城と城下町が安泰でありますようにとの願いから「安城寺」と名付け、石門和尚により開山されました。
既存の御堂は、延亨3年(1746年)に、松山城御典医、西崎杏庵により建立され、以来、城下町松山を守り続け、今日に至っております。
黄檗宗(おうばくしゅう)
日本の禅宗には、黄檗宗、臨済宗、曹洞宗の3宗派があり、黄檗宗は、「唯心の浄土”己心の弥陀”無限の自由と愛の世界がこの身このままが仏である」という、私たちが本来持っている仏心を、坐禅することによって悟る禅宗の中の1つです。
黄檗宗は、はじめ臨済正宗と称していましたが、明治9年に黄檗宗と改めました。
江戸時代の承応3年(1654年)、隠元(いんげん)禅師を宗祖として、達磨(だるま)大師の禅を継承する臨済禅の正統派として伝えられ、後水尾法皇を始め、徳川将軍家の帰依を受けられました。尚、明朝体活字(鉄眼一切経)、木魚、煎茶、などを伝え、日本文化に与えた影響は大きいものがあります。
隠元(いんげん)禅師
隠元禅師は中国明朝末のお坊さんで、その名声は日本にまで知られていました。中国福建省でお生まれになり、福建省福州の黄檗山萬福寺の住職として、大いに禅風を挙揚しておられましたが、日本からの招きに応じて、63歳のとき多くの弟子を伴って来朝されました。
本山
黄檗宗の本山は、京都府宇治市の黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)です。
徳川家綱公より現在地(京都府宇治市)に寺領十万坪を与えられ中国の黄檗山萬福寺を模して、明朝様式の禅寺を創建しました。
名前も同じ、黄檗山萬福寺とされました。
ご本尊
黄檗宗のご本尊は、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。
本山の大雄宝殿(本堂)には、高さ9.5mの釈迦牟尼仏が本尊として祀られています。隠元禅師とともに来日した仏師(ぶっし)范道生(はんどうせい)の羅漢像も本堂に祀られています。
ただし、末寺では一仏にこだわらず、縁に従って各本尊が安置されています。
(安城寺のご本尊は十一面観世音菩薩です)
お経
黄檗宗も他の禅宗と同じく所依の教典は定めず、仏の心を宗旨としています。
黄檗宗ではいかなる教典も大切にしていますが、特に祖録が大事に扱われています。
おしえ
唯心の浄土・・・己身の弥陀 (ゆいしんのじょうど こしんのみだ)
「無限の自由と愛の世界 この身このままが仏である。」
私たちは、本来仏心を持っています。そのことに気付くことです。
マメ知識
黄檗宗の宗祖が隠元禅師であることを知らな人でも、インゲン豆は誰でも知っていると思います。
日本に与えた影響は多岐にわたります。
インゲン豆をはじめとして、木魚・普茶料理・明朝体活字(鉄眼一切経)・黄檗の書画・煎茶・日本最初の公立図書館を作るなどがあります。
このように、隠元禅師をはじめとして、多くの黄檗宗の高僧方が、日本文化に与えた影響は大きいものがあります。
鉄眼一切経
明朝体活字の元となっています。
※ 黄檗宗青年僧の会パンフレットより一部抜粋して掲載しております。